日常性を獲得することこそが
文章: dotimpact
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発熱地帯:ゲームはストーリーよりも日常を描くのに向いているのかもしれない。を読んで、ひさしぶりにゲームと物語についてとりとめもなく考えた。個人的な好みとカンから言うと、「ゲームはストーリーよりも日常を描くのに向いているか?」と言われれば、イエスだと思う。前そういうことについてずーーーっと考えてた。まとまらなかったけど。
ただ、そこでいう「日常」というのは、こうしてやっぱりカッコでくくっておくべきものなんじゃないかなーと思う。発熱地帯さんはその「日常」を脳トレやnintendogsやMMORPGに結びつけて、日常性を取り入れたライトな感覚のゲームの隆盛について説明しているんだけど(これはこれで説得力あるんですが)、なんかそこ、僕は逆じゃないかという気がする。カンですよ、カンだけど。
つまり、ゲームが日常性を表現していたというよりも、「日常性を獲得することこそが、ゲームになってた」んじゃなかったか、と思うのだった。これただの言葉あそびかな?
ToHeartを例でひきあいに出すと、ToHeart(みたいな美少女ゲーム)の愚直なまでのカレンダー式日常進行は、そこで展開されるシナリオの「ある短さ」とか「ある長さ」というものを、的確に演出するために利用されてたように思うし、ゲームの中に、そのゲームの世界が進行する時間単位というものを設定して(*)、プレイヤーにその「時間」の流れ、「日常」性を体験させる、というのが、過去ゲームが行ってきたことじゃなかったかなーと。そうだとしてそれはプレイヤーに、実際には存在しない「日常」を感じさせること自体が、ゲームらしい面白みとして実現されていたのであって、ライフタイムとしての日常性とは別のものではないか、という気がする。では今はやっている毎日ちょっとづつやるゲームたちがどっちなのかというのは、ちょっと言い切りたくないのだけど。
- (*)誤解されそうかも。ゲームシステムに時間の概念があって〜という話ではないですよ。そういう場合もあるだろうけど。たとえばゲームがステージで分かれてて1面づつクリアーしていくとか、テレビ番組仕立てで各話に予告編があるとか、あるいは意味もなく時間が来ると1ゲーム終了(巨人のドシンとかピクミンみたいな)とか、ともかくゲームがショートタームで文節されている場合のような話です。
もうひとついうと、つまり、ゲームの上では「物語」と「日常」って対抗概念ではないのかもしれないなと。
なんちて、ひさしぶりにこんな話をしてみた。ゲームぜんぜんやってないのに!
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