think-routine #21 時間管理される物語について
初出:
2000-06-09
■「Kanon」の次はやっぱりこれだろうか、ということで、続いて今度は「AIR」をZaurusにインストールして(ちなみに「Air」をコンバータでわっふるのデータファイルに変換すると音楽なしで42MBくらいになり、CFメモリ(64M)の実に3/2あまりを占有します)、寝る前ふとんに入ってからとか、ミスタードーナツでドーナツを食べながらとか、バスの中でとか、ほとんど本と変わらないかっこうでちくちくとプレイして終わらせたのだった。いや、こういう読むゲームをこういうふうにプレイするのってかなり気持ちがいいというか、むしろ前面的に正しいような気がする。
■そして「Kanon」の時は「まあ、泣いてもいいよ、とは思ったよ」とかかろうじてウソブいてもいられた僕も、「AIR」にはかなりほろっというか、じぃんというか、まあその、したのだった(美凪シナリオあたりで)。とはいうものの、やっぱりエモーションエンジンがボロいので涙を流すまで極まりはしなかったし、それにしてもこれはいったい何なんだろう、なんてことも思わないではない…なんて負け惜しみめいたうわごとを言いはじめるとしても、それは僕の往生際の悪さを単に示しているといってしまってかまわないだろう。
■さてさて。それにしてもこれはいったい何なんだろう、と思うのだった。べつにそれは「AIR」にかぎった話ではぜんぜんないんだけれど、そこにあるのはたしかに感動的な物語ではありながら、いわゆる「感動的な物語」にしては、けっこうヘンなカタチのモノになってるんじゃないだろうか、と僕は思っている。そしてその「ヘンなカタチのモノ」を通じて、あるいは「感動」にいたる手続きを、もしかしたら「ゲーム」と呼べるんじゃないかな、なんてことを僕は考えるのだ。
■前作「Kanon」にしても本作「AIR」にしても、舞台こそ現代であるものの、そこに綴られるエピソードはほぼわれわれの知っているものとは別の世界として扱われるファンタジーになっていて、さらにいうと「幽閉された無垢なるものを解き放つ」というような象徴的なプロットを伝えるべく書かれたメルヘンといってもさしつかえないものだろう(もちろんコンピュータゲームで綴られるストーリーの大部分はそういうものではあるんだけど)。きちんと評を追っていないから例を引くことができないけど、じっさいにこれらの作品が雑誌の紹介において「現代のおとぎ話」と評されたこともあったはずだ(ゲーム批評だったかな)。そう、たぶんまちがいなく「Kanon」や「AIR」は「現代のおとぎ話」といえるものなんだけど、その「おとぎ話」は、「7月17日から7月31日までの14日間の毎日」というようなものとして描かれるのである。僕が「ヘンなカタチのモノ」だと思うのはこのあたりだ。
■例によって僕の当て推量によるものだけど、ふつうおとぎ話であるとか夢をその代表とするある種の幻想性というものは、一つのおおきな特徴としてその時間感覚の希薄さを挙げられるはずで、逆にいうと物語に「時間」を設定することはそれを現実に重ねることで地に足のついたリアリティを与える、という一般的な「おとぎ話」とは正反対の原則に従うことなんではないんだろうか。「Kanon」とか「AIR」とかががおとぎ話だとかそういったある種の幻想性にあるべき法則について単に無頓着なのかというと必ずしもそういうわけでもなくて、その物語からはたんねんに固有名詞が避けられていたりして(現実を根拠としない物語の特徴だ)、ほぼその法則にしたがっているように思える。その「おとぎ話」然とした物語に設定された、奇妙なほど厳密な「日付」は、たぶん「おとぎ話」とは別の法則が必要としているのだろうと、僕は考える。
■加えてこれは「ToHeart」について書こうとしたときの繰り返しになるけれど、「Kanon」とか「AIR」がたとえばノベライズなり漫画化なりアニメ化なりされるとして(それにしてもノベルゲームのノベライズというのはおかしなものですネ)、それが本編のように「毎日の軌跡」として書かれる可能性はほぼないだろうと僕は思うのだ。もちろん本編と似たようなものを作ってもしかたないといった事情もあることだろうけど、それ以上に、「本編の形式をそのままなぞっても、それが表現として成功するとはとても信じられない」ところがある。たとえば「Kanon」では、プレイヤーが読み進めることになる日々の描写に、「名雪の声がサンプリングされた目覚まし時計で主人公が目覚め、その目覚ましを止め、部屋を出て名雪を起こし、1階に下りて、朝食を食べ、遅刻ぎりぎりの時間に家を出て、学校に急ぐ道すがら出会う友人に朝のあいさつをして、学校の門にすべりこむ」という一連の手続きが原則的には毎日挿入される。「なぜそんなことが可能なんだ」と思うくらいだ。じっさいにはすこし安心することに、「Kanon」や「AIR」の物語そのものも、展開が佳境に入るとその手続きをスキップしがちになっていく。しかしそれでも、その物語において「日付」は間違いなく一日づつしか経過しないのである。まるで、それが「ルール」であるかのように。
■おそらくそういうことだろうと、僕は考えるのだ。つまり、
「Kanon」や「AIR」における「日付」は、物語とは別に進行する“システム”なんである。そして、この“システム”に従ってプレイヤーが物語を読み進むことは、その意味においてその物語を「プレイ」することになる。逆にいうとその限りにおいて、いかなる物語の要請があろうとも、その“システム”を恣意的に調整することはできないのだ。このような原則に従う“システム”を通じて読まれた「Kanon」や「AIR」の物語は、たぶん一般的な意味での「おとぎ話」ではない。「14日間の経過を根拠として実在する世界」になっているはずだ。
■いわゆる「ノベルゲーム」のようなものを「システムを外装する物語」というふうに考えることができるんじゃないかと、僕は考えている。そこでいう“システム”は「選択肢」によって展開する可能世界なのかもしれないし、あるいはそれだけでもないのかもしれない。なんにせよその「システムを外装する」という極めてコンピュータゲーム的な発想において、「ノベルゲーム」を肯定してしまってもいいんじゃないかと僕なんかは思うのだった。
注釈とか余談
- 美凪
- 「AIR」に登場するキャラクター。天文部。お米券。「残念…」。「ぽっ」。「飛べない翼に、意味はあるんでしょうか?」。
- 7月17日から7月31日までの14日間の毎日
- 「AIR」美鈴シナリオ(AIR編を除く)の場合、ですね。
- 名雪
- 「Kanon」のヒロイン。幼なじみ。イチゴサンデー。「わっ」。「くー」。