think-routine #20 コンピュータゲームの2000年について
初出:
2000-12-04
毎度。いちおう3年目となります棚卸テキストです。2000年にプレイして「これはなんだ」と思いながらもなんかちょっと言いよどんでしまったゲームたちをあらためてちょっと触れていく次第でありますよ。
コンピュータゲームの2000年について #1 巨人のドシン1(PARAM,MARIGUL / 64DD)
■なんでも聞くところによると、1999年の12月に発売されたゲームは厳密には2000年のゲームとはいえないらしいんだけど、僕はそういう専門的なことはいまひとつよくわからないから、あんまり気にせずここで取り上げることにしよう。「巨人のドシン1」は2000年のコンピュータゲームである。
■というか、じっさいに厳密を期すならばこのゲームには「発売日はなかった」と言わなければならない。ランドネットスタータキットとしての64DDに標準添付されるというかたちでかなり少数の人に届けられたこのゲームは、ゲームの中での巨人がそうであるように、それがいつか来ると信じていた島の住人の前にのみ、およそ蜃気楼かなにかのように忽然と登場したのだ。そして、やはりゲームの中での巨人の物語をなぞるように、そのゲームも、その島じたいも、予定していたよりもずっと小さいままで約束された時間を迎え、冷たく動かなくなっていった。それがほんとうにあったものなのか、いまとなってはよくわからない。
■とかいうのは、まあともかく。なにしろプレイした人がかなり少ないだろう(そして今後触れることになる人に至ってはほとんど皆無だろう)「巨人のドシン1」というゲームのよさを伝えることはなかなかむずかしいのだけど、少なくともこのゲームの「最初の1プレイ」から受ける印象については書いておきたい気がする。それは多くの人が考えるより、ずっとよいものだ。
■ゲームプレイにおける「ナレーション」(あるいはスポーツゲームの「実況」)とか、いわゆる「オフのセリフ」というのが、前から気になっている。僕がそれに最初に「!」と思ったのはバーニングレンジャーをプレイしたときだったのだけど、プレイヤーが行う言ってしまえば支離滅裂なゲームのプレイに、「ナレーション」がかぶさると、どうもそのプレイ内容が「かけがえのないもの」になっていくような気がするのだ。「巨人のドシン1」のとくに「最初の1プレイ」に僕は、そういう「かけがえのなさ」を、強く感じる。その世界における巨人(つまりプレイヤーだ)というものの驚異が、世界の傍観者の声によって語られ続けるこのゲームで僕は、自分の操作というのがその世界に与える影響に、あらためて驚き、さらにはほとんど恐れることができる。思わずその操作を他ではなく慎重に行ってしまうくらいに。ちなみにこの印象を「第一回の」と限定するのは、そういう感じはやはり回数を重ねると消え去ってしまうからだけど(ナレーションが減っていくということもあるけど)。
■ゲームのプレイヤーというのは、そこでプレイヤーとしての自分が望む結果をもたらそう、という欲望から操作を入力するわけだけど、同時に「それはゲームにおいてどういうことなのか」ということを確かめたいという欲望も持っている。つまり前者のような主観的な行動としての一貫性と、後者のような客観的な出来事としての(物語としての)一貫性とを、同時にその「プレイ」に観たいと思ってるんじゃないだろうか。いわゆる「美しいプレイ」というのは、おそらくその二つを満たしているもののことだ。
そこで行われるプレイ内容を説明する「声」は、後者の意味での、客観的な意味での「プレイ」というものを強く意味づける。このような演出によって、プレイヤーは自分の行動の「正しさ」を(現実にはありえないかたちで)確かめることでき、より深くゲームの「プレイ」にのめりこむことができるのだ。
■そういえばみんな飽きちゃったのか「映画みたいなゲーム」とかあんま言わなくなってしまったけど、それでも僕はおととし書いた意味での「映画のようなゲームをプレイしたい」という欲望はなくなっていないと思うし、それがどうできるのか、という方法は推し進めるられているはずだと思う。そしてその方法は、みんなが飽きてしまったのとは徹底的にべつのものであるはずだし、じつはいままでだってそうだったんではないかな。