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think-routine #16 フォービドゥン・インターフェイス

文章: dotimpact
カテゴリ: [/text/think-routine]
初出:2000-07-11


■それはあまりにも自然に組み込まれてしまい、われわれはまんまとそのことを忘れているように思うので、まずここで確認しておくのだけど、「ゼルダの伝説」というシリーズは、別に昔から「時間」というものをゲームのモチーフとして据えていた、というわけではないのである。それはNintendo64版のシリーズから、つまり前作「ゼルダの伝説 時のオカリナ」から、あえていえば「突然」盛り込まれたモチーフにすぎない。でも、なのにもかかわらず、続く新作「ゼルダの伝説 ムジュラの仮面」をプレイしてみれば、その「時間」というモチーフは、すでに「ゼルダの伝説」というシリーズの根幹をなすものになっているように僕には感じられるのだった。今後この作品がさらなる続編を発表するとしても、その作品から「時間」が失われることはありえないだろう、と僕は思うのだけど、どうだろうか。

■ゼルダがどうして「時間」を導入したか、なんてことは一概に言えたりはしないかもしれないんだけど、たとえばこんな風に考えられるんではないかと僕は思う。つまり、この「時間」が、「64のマリオ」と「64のゼルダ」を明確に別のゲームにする、というようなこと。かつて別のものだった「アクションゲーム」と「(いわゆる)アクションRPG」が、ここへきてほぼ同じ「アクション」を獲得したんではないか、というのが前作のときに僕が言おうとしたことだったわけだけど、その「アクション」、つまり「プレイヤーのできること」にほぼ同じ環境を提供した後でなお、「マリオ」と「ゼルダ」を区別しようとするとき、そこに「時間」のようなものを必要としたのだろうと、僕は考えている。

■さて、新しい「ゼルダの伝説」における「時間」とはなにか。まずそれは言うまでもなく、「新しい箱庭」だということだろう。われわれがブーメランを手に入れたといって一回りし、フックショットを手に入れたといっては2回りする世界が、さらにもうひとつの軸に沿って広がっているというわけだ。でももちろん、扱われる世界が広がったからといって「マリオ」と「ゼルダ」が区別できるわけでもないだろう。僕がもう一つ考えるのは、ゲームに「時間」が導入することで、「ゼルダ」は、たとえば「マリオ」がそうであるようないわば「アクションゲームの世界観」のようなものから抜け出ようとしているんではないか、というようなことだ。

■さてここからはネタバレだ。「ゼルダの伝説 ムジュラの仮面」が、「今回リンクは巨大な月が落下してくる世界を救う冒険をする。残された時間は3日間」といったあらすじのゲームであるのはどなたもご存知のことだと思う。もちろんそれはあらすじとして間違っていないのだけど、ところが、実際の「ゼルダの伝説 ムジュラの仮面」でプレイヤーは、ぜんぜんそういうゲームをプレイしないのである(正確に言うと、「最初」だけはそういうゲームだと言ってもいいのだけど)。プレイヤーがプレイするのは「残された時間が3日間になった世界と時間を共にする」というゲームだ。なんだ同じじゃないかと思われるかもしれないが、これは違う。このゲームでの「3日間」という時間は、あくまでこのゲームの「世界」に係わるものであって、プレイヤーに係わるものではないのだ。だから、「3日間」はあらすじから素朴に連想されるようにゲームの「制限時間」なわけではまったくない。しかしやはり、その世界は「3日間」で終わるべく(プレイヤーも含めた)ヒトもモノも進行していくのだ。しかも、何度も(!)。つまりこのあたりがこの世界の、つまりこのゲームの最大の魅力なんであって、こんなところでバラしちゃうと怒られちゃうのかもしれないけど(お面屋のオッサンあたりに)。

■たとえば「マリオ」のような、純粋なアクションゲームであれば、「3日間で月が落ちてくる」となればそれは間違いなく「制限時間」という「ゲームを構成するルール」になっていることだろう。それがルールである、ということは、期限になれば確実にゲームオーバーになるということだけど、逆に言えば、その制限時間内であれば(つまりルールに抵触しなければ)、プレイヤーはどこにどのように時間を使っても(使わなくても)、かまわないことになっている。ゲームの「世界」というのは、多くの場合そういうプレイヤーにとって「自由な」ものだったはずだ(つまりこれが「アクションゲームの世界観」である)。しかし、新しい「ゼルダ」にあるような、僕がここで説明しようとしている「時間」は、上に書いたような意味での「ルール」ではない。それはプレイヤーのために用意されるのではなく、あくまで「世界」のために用意されるシステムである。したがってプレイヤーはその「時間」そのものには何も可能にされず、また何も制限されないのだけど、実際にプレイヤーがその「世界」をプレイするためには、常にその「時間」に関わらなければならないのだった。こういう、プレイヤーからあえていえば、「不自由」で「不条理」なシステムが、ゲームにおける「時間」だ。

■本来ゲームというものがルールに従った「アクション」のみによってプレイを進行させるものだとすると、ルールとは別の、「アクション」ともほぼ無関係の要素として、プレイヤーにある意味先んじてプレイが進行させようとする「時間」というものをどう考えればよいのか、というと、こんな風に考えられると僕は思う。つまり、プレイヤーにとってゲームの「時間」とは、そのゲームの「世界」をプレイするための、「アクション」とは別のインターフェイスなのだ。「アクション」が「プレイヤーに可能なこと」によってゲームの「世界」をプレイするインターフェイスだとすると、「時間」は、「プレイヤーに不可能なこと」を通じてゲームの「世界」をプレイするインターフェイスだと言える。「『プレイヤーに不可能なこと』を通じてゲームの『世界』をプレイする」というのはかなり奇妙な考えかたなんだけど、つまりそこに「時間」が介在することで、プレイヤーはその「世界」で「何かをする」ことではもちろん、「何もしない」ことでも、その「世界」が変わっていくのを見ることができるわけだ。「何もしない」ことで世界に触れるインターフェイス。その世界を「時間」を通じて見ることによって、プレイヤーは「その世界で自分に何ができて、何ができないか」を正確に知ることになるだろう。

■だからもう一度言うけど、「ゼルダの伝説 ムジュラの仮面」というゲームでプレイヤーがプレイするのは、「残された時間が3日間になった世界と時間を共にする」ゲームである。もちろん多くのリンクはその世界を救うことになるのだろうけど、でもそれもやっぱり「残された時間が3日間となった世界と時間を共にする」方法の一つに過ぎない、と言わなければならないのだった。
at 1998-10-06 00:00 / permalink
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