think-routine #12 フォーマル・イクスプレッション
初出:
1999-10-22
■「映画」と「ゲーム」をめぐる考えを退屈なものにしてしまわないためには、われわれが「映画」を感じるのが「映画だけではない」ように、われわれが「ゲーム」を感じるのもまた「ゲームだけではない」という至極当り前のことを、当り前だからといってあっさり忘れてしまわない、ということが必要なのだと思う。もっと言えば、たいていあっさり忘れられてしまっているから退屈なんではなんではないか、と思っている。とりあえず誰もが「ゲームが映画に近づいている」と語るんだけど、一方では「映画がゲームに近づいている」のかもしれない。たとえば「『映画みたいなゲーム』と、『ゲームみたいな映画』では、どちらの方がより『ゲーム』なんだろう?」なんて話なら、きっと僕は退屈せずに考えることができる。
■「ラン・ローラ・ラン」は、その映像感覚が本国で熱狂的な人気を呼び話題になったところのドイツ映画で、僕にとっては名古屋での上映を見逃したと思ってたら信じられぬことに豊橋の劇場でもかかった(こういうヘンな映画が来るのはたいへん珍しい)ので遅ればせながら観にいった映画だ。この映画を観たみんなが思わず言ってしまいたくなること、あるいは僕がここでこの映画を紹介したくなってしまう理由はあえて言うまでもないんでただ観てもらえばいいんだけど、以下のネタバレも覚悟であえて言えばこの映画が「まるでゲームのよう」に思える、ということにつきるのだよ。
■「ラン・ローラ・ラン」という映画の最大の特徴は、「あるひとつのエピソードがその展開を変えながら何度も繰り返す」ということにある。電話で恋人マニの窮地を知った主人公ローラは、その受話器を置いた瞬間から「クリア」を目指してまっしぐらに走りはじめる。道中のささいなタイミングの違いからローラやマニや彼らに関係する人々の運命はドラスティックに変化し、それぞれの「バッドエンド」や「ハッピーエンド」にたどり着く。もちろん「バッドエンド」に満足するローラではなく、「ハッピーエンド」をつかむまでスタートから「やり直す」んである。テンポよく切り替わる映像も、反復するBGMも、われわれの知っている「ゲーム」によく似ていて、そのように楽しむことができる映画なんだけど、僕が言いたいのは「そういうこと」だけじゃなくて。ここで僕は「ラン・ローラ・ラン」はゲームに似ている、どころか、「『ラン・ローラ・ラン』はほとんどゲームなんじゃないか」と言ってしまうつもりだ。
■僕は、この映画のひとつのエピソードが何度も繰り返すことや、繰り返すたびに展開が変わること「そのもの」が、「ゲームっぽい」のだ、とは考えない。もちろんそこでゲームが比喩として使われるのはそれなりに適当だろうとは思うけど、エピソードが反復したり、その展開が変わっていくこと「そのもの」は小説にも映画にも案外よくある形式なんじゃないかな。たとえばそのような形式を美しく成立させる「タイムトラベルもの」とか呼ばれるジャンルがあったりする。物語でも「そのためのウソ」を用意すれば、たとえばエピソードの反復のような形式を表現できるわけで、それは必ずしも「ゲーム」ではない、と僕は思う。
■でも「ラン・ローラ・ラン」は、エピソードを反復するために「そのためのウソ」を用意しない。つまりここに僕は「ゲーム」を感じるのだった。「ゲーム」において、たとえば同じことを反復したりその度に展開が変わったりする形式はシステムとして当然のことで、わざわざ「そのためのウソ」をつく必要がない(もちろん、用意したっていいんだけど)。それぞれの「ゲーム」は、そこで伝えたい感覚に応じてシステムを決定することができる。つまり表現によって形式を実現する小説や映画とは逆に、「ゲーム」では形式によって表現が可能になるはずだ。「ラン・ローラ・ラン」を撮ったトム・テュクヴァー監督は「エピソードが反復するのは主人公ローラの愛の強さを表現した」と言っているけど、これは「愛を表現するために反復する形式を採用した」のではなく、「反復する形式によって愛を表現できることを発見(発明?)した」という意味だと、僕は信じるものだ。
■「ゲーム」がそうであるように、「ラン・ローラ・ラン」は反復する世界という「大きなウソ」の上で成立している。とすれば、「ラン・ローラ・ラン」がそうであるように、「ゲーム」においてもその形式からたとえば「愛」が表現できるのかもしれない。